「香住に名高き大乗寺 応挙の筆ぞあらわるる 西へ向かえば餘部の 大鉄橋にかかるなり」
「山より山に掛け渡し 御空の虹か桟か 百有余尺の中空に 雲を貫く鉄の橋」
これは、1911(明治44)年に発表された「山陰鐵道唱歌」で兵庫県にある「余部(あまるべ)鉄橋」を歌った一節です。
これは、1911(明治44)年に発表された「山陰鐵道唱歌」で兵庫県にある「余部(あまるべ)鉄橋」を歌った一節です。
以前から行ってみたかった「余部橋梁」。
私が住む福岡からは片道約550kmと、簡単に行ける距離ではないのですが・・・。愛車が低燃費の「ノート e-power」になった記念に遠くまで走ってみたくなり、この度、金曜の深夜に出発して日曜日の早朝に帰ってくるという弾丸ツアーで行って参りました。
「余部橋梁」が日本海側にあるため高速道路が直接接続していないこと、山陰地方は渋滞がないだろうと予測したことなどから、今回の行程は、関門トンネルを除いてすべて無料の一般道を利用しました。
適宜休憩を取りながら、夜通し走り続けます。
理論上は、平均時速50km/hで走れば約11時間で到着することになるのですが、さすがにそれは無理でしたね。
(^_^;ゞ
写真は、道のりの途中である江津市の浅利駅付近から。
早朝の山陰本線と林立する風車です。
出発から約13時間後。
余部まであと1キロの案内が!
遂に「余部橋梁」が見えてきました。
初代の余部橋梁は、1912(明治45)年に建設されたトレッスル橋で、「余部鉄橋」の名で有名でした。
現在の余部橋梁は、2010(平成22)年に供用が開始されたPC橋です。
橋梁の下に建立された慰霊碑。
余部橋梁といえば、1986(昭和61)年に発生した列車転落事故を忘れるわけにはいきません。
同年の12月28日午後、お座敷列車「みやび」として回送運転中だった14系客車7両が鉄橋上で突風に煽られ、橋梁から転落して下にあった水産加工工場を直撃。
工場の従業員だった女性5名と、列車に乗務中だった車掌1名の6名が亡くなり、6名が重傷を負うという大事故が発生したのです。
当時の私は高校生になったばかりでしたが、余部鉄橋は、いわゆる「画になる鉄道風景」として有名な場所でしたから、この事故には大きな衝撃を受けました。
「余部を訪ねてみたい」と強く思うようになったのは、この事故が契機になったとも言えます。
今回、ようやく手を合わせることができました。
初代の「余部鉄橋」は、事故を契機に強風にも強いPC橋に掛け替えられ、大部分は解体されてしまいしたが、その一部は保存されています。
これは、実際に使用されていた橋桁。
上空約40mに設置されていたものです。
「余部鉄橋」を紹介したパネル。
竣工時は、東洋一の威容を誇ったトレッスル橋でした。
この写真に写っているのは、「キハ181形」の4両編成ですね。
かつての橋脚は、解体時に一部が残されました。
PC橋脚と、保存されているトレッスル橋脚。
橋の下は公園になっています。
トレッスル橋脚を見上げてみます。
巨大なクレーンもない明治時代、どうやって組んだのでしょうか。
「余部鉄橋」の上部構造物の一部は、「空の駅」として運用されており、在りし日の姿を今に伝えています。
地上約40mにある「空の駅」にアクセスするために、2017(平成29)年に「余部クリスタルタワー」としてエレベーターが設置されました。
私はエレベーターは利用せず、餘部駅にアクセスするために整備されている坂道を登っていくことにしました。
坂道が始まるあたりに、「餘部駅開駅」の記念碑が建っています。
なお、地名や橋梁の名は「余部」ですが、同じ兵庫県内に「余部(よべ)」という同じ漢字の駅が先に設置されていたため、駅名は「餘部」とされているそう。
開駅記念碑の隣には、餘部駅が設置されるまでの様子がパネル展示されています。
鉄橋の完成後、駅の設置まで、なんと47年もかかっていますよ!
餘部駅が設置されるまでは、余部地区の住民の方々は、列車が来ない時間の合間に鉄橋を歩き、トンネルを抜けて隣の鎧駅まで歩いていたのだとか。
・・・大変な苦労があったのですね・・・。
「空の駅」への山道は、すなわち「餘部駅」への山道でもあります。
エレベーターが設置されたことで、餘部駅へのアクセスも容易になりました。
山道の途中から。
2代目のPC橋は、初代トレッスル橋のすぐ隣に架橋されているのが分かります。
「空の駅」に着きました。
かつての鉄橋の線路が残されています。
「空の駅」は、JR餘部駅のすぐとなり。
ホームもつながっています。
「余部鉄橋」だった部分は、歩道として整備されています。
「余部鉄橋」から、余部の入り江を望んだところ。
穏やかな晴天でした。
「空の駅」の端には、線路も残されています。
かつては、この線路が谷の向こうにあるトンネルにつながっていました。
「空の駅」を見学した後は、橋梁を一望できる有名な撮影スポットに向かいます。
駅からさらに山道を登っていくと、たどり着きました。
すると、偶然にも列車が通りかかったので、慌てて撮影しました。
時刻表によると、餘部駅に停車する列車は、1日に12本のようです。
滞在時間が限られていたので、列車を撮影できたのは幸運でした。
トンネルに入っていく列車。
2代目PC橋は初代鉄橋があった場所に繋がっているので、線形がS字を描いています。
橋梁の直近には「道の駅あまるべ」が。
おみやげの購入や食事、休憩ができます。
「道の駅あまるべ」では、「山陰本線余部鉄橋」の大きなジオラマが目を惹きました。
鉄橋の上を走っているのは、「キハ181系」なのですが・・・。
この模型、16番の既製品かなと思いきや、ワンオフの手作り品のようです。
Nゲージサイズでは、東洋一と謳われた余部鉄橋の巨大さ、雄大さを表現することができないと考えられたのかもしれませんね。
今回の滞在時間は、約2時間。
往復の所要時間を考えると、割に合わないという考え方もありますが、私にとって、余部は「訪れること」に意味があった場所でした。
訪ねることができて本当に良かったです。
コメント
コメント一覧 (8)
初代鉄橋最後の7月、下りサンライズ出雲で一畑全線乗りと
出雲歴史館バタ電展示会最終日に併せて出掛けました。
翌日早朝の鳥取発はまかぜで通過しました。その前は夜行
急行だいせん客車時代に通過…確か96年のことでした。
未だあの橋を再訪せぬままです。行かなくては…。
往復で約1,100キロ、26時間に及ぶ運転はさすがに堪えましたが、それでも余部橋梁は訪ねて良かったと思える場所でした。
夜行急行「だいせん」で通過されたとか・・・うらやましいですね。
お疲れ様でした
往復の26時間があるから、余部の2時間が有意義になるんかなって思いました。
僕も秋津のOB様と同じく
急行だいせんが廃止になる直前、思い切って出雲市までの旅を敢行した事があります。
※大阪~米子「だいせん」 米子~出雲市「スーパーおき」
そのまま山陰ルートで帰れば、日中の余部鉄橋を堪能出来たのですが
当時はやくもに乗りたい衝動が勝ってしまい、山陽ルートで帰ってしまいました・・・
KOU様のスピリットを見習い余部鉄橋を目指します。
道のりは遠かったですが、山陰地方は車が少なく、ストレスなく移動できました。
余部橋梁、近ければまた行きたいところですが・・・。
(^_^;ゞ
餘部にお住いのたくたくさんは、郷里が福岡なのでしょうか。
山陰道はとても走りやすい道路でした。
(^ ^)
自分は凍結路面対策を準備して行ったので、雪深くて下半身フル防水装備の上でラッセル必須の「お立ち台」への道を諦めた程度で済みましたが
コメントありがとうございます。
凍結した状態で、あの坂道を登るのは本当に大変だったのでは?
それを考えると、EVが設置されてアクセスは便利になりましたね。
また行ってみたいのですが、、如何せん遠くて・・・。